続・加藤の乱

メンヘラ格闘家

伊坂幸太郎のグラスホッパー/死神の精度の感想

グラスホッパー

 

 伊坂の「グラスホッパー」は押し屋と呼ばれる殺し屋をめぐって各々の登場人物が交錯していく物語なんだけど、この作品は好きではない、実際にエンターテイメントとしてよく書けているな、という部分は多くあるし、様々な伏線やネタを仕込んで深みを持たせてはいるものの、その描写や演出の意味がはっきり理解できないからだ

 

表題の「グラスホッパー」の意味は作品中にも何度か示されるように、都会にひしめき合うように暮らす人間をバッタの群集のようにシニカルに捕らえるような意味が含まれているようには思う、でも言ってしまえばそれだけである、「人間が都会にひしめきあってバッタみたいね」という嫌味以外には何かあるようには思えない、作中で人が何人も無残に死ぬのも、人間という尊い命から一歩引いてモノのように扱うことで、「人間なんてそこまで尊いものでもないんだよ」ということを暗示しているというのはそうだし、それは解説にも書いていることだが、言ってしまえばそれ以上でも以下でもない、ということだ。

 

それに幻覚の描写も気になって、あれはエンターテイメントとしては面白いが、実際にあの幻覚が何を意味しているのかはわからない、たしかに作品全体も一個の幻覚であるかもしれず、その可能性がこの作品にミステリアスでディープな雰囲気を出してはいるものの、それが一体何を主張しているのかは理解できなかった

 

 細かいが鈴木の年齢を27歳としているが、もしこれが本当なら作中の話と照らし合わせると鈴木は15歳くらいで大学生であることになる、まあこういうのは割りとどうでもいいと思ってしまうタイプなんだけど、こういうミスを見ると、この作品にある描写の数々にはそこまで深い意味はないのでは?という風に思ってしまう。

 

死神の精度

 

つぎに同作者の「死神の精度」だがこれは結構面白かった、死神が視点になって物語が進行していく作品は特に珍しくは無いはずだが、現代社会を死神の視点から見せることで、一歩引いたような、キッチュさを持って人間社会を描写することに成功している、つまり、死神という異なった価値観を持った存在が人間社会に現れて活動することにより、その異なった価値観で社会を解説し、新しい視点を提供するのが面白い、

 

これはガリバー旅行記のフウイヌム国旅行記や、トルストイホルストメール、夏目漱石我輩は猫である、に通じる技法である、フウイヌム旅行記では、人間が家畜として馬を飼う、という構図が逆転して馬が人間に似た生物である「ヤフー」を飼育している世界にたどりつくことになる、そこでは馬がヤフーに対して、常に争いごとをし、アルコール中毒であり、輝く石に目がないおろかな生物として描写されることになる。

 トルストイホルストメールでも馬の視点から書かれており、人間たちが勝手に決まりごとを作り、本来だれのものではない土地や財産などに所有権を主張していることの馬鹿馬鹿しさを書いている。

 夏目漱石の「我輩は猫である」も猫の視点から人間の滑稽さを描写するという技法が頻繁に使用されていた。

 このような技法や演出が死神の精度にはあり、作品に違った面白さを与えてる、死神が死を見送ることにするか死をそのまま選択するかといった設定も面白い、話のテンポや描写の切り替えもよく、簡単な言葉を用いてるためすぐに読み進めることができるため、物語として非常に読みやすくエンタメ性もある

 

ただ全体的に死神ではなくても成立するような話が多く、さらに一話ごとのテーマや哲学が希薄な点もあり、そこは不満点ではあった。

 

最後に

 

 まず僕は伊坂のような小説を読むことがまったくない、こういった推理小説を頻繁に読んでいたのが中学生くらいが最後だった気がするためやけに新鮮だった。単純に推理小説は自分の肌に合わないというか、エンターテイメントを演出するためだけに終始していて、作品全体に主張が薄い、哲学を感じない、表現方法も文学とえるほど洗練されていないと思ってしまうからというのが理由のひとつだったが、読んでみるとまあ上記したような感想がやっぱりチラホラ浮かんできたんだけど、普段読まないジャンルだから新鮮に感じて楽しめた、このジャンルも手を出していけば僕が満足するような名作にいつかたどり着けるだろうし推理小説ほかにも読んでみようかな…あと推理小説に詳しいと文系サブカルっぽさが増していいしな…

 

 読んでからだいぶ経ってるのでちょっと読み返してから書こうと思っていたが、読み返してるうちに時間が過ぎてしまった、感想書くといって一週間経っている気がする…