続・加藤の乱

メンヘラ格闘家

加門七海「美しい家」

今回はホラー短編集です、表題作の「美しい家」がよかったので結構期待しながら読んでたけど後半になってからつまらなくなってきた感があります(というか美しい家が一番面白い)

 

第一編 美しい家

これは表題作なだけあって面白かった、簡単に言えば過去の美しさと未来の不安と不確実さをテーマにした作品で、過去を記憶する家をそのオマージュにしているのがよい、最後は幻に取り込まれた青年と、現実を選んだ主人公の対比になるが、現実に戻ってきたからといってこれからの幸福を予感させず、相変わらず未来の不確実性を暗示させるのもいい。

 

第二編 迷い子

描写が馬鹿すぎて失敗してるとしか思えない作品、というか単純にこういう大げさなホラー描写を読んでしまうと笑ってしまうので嫌だ、この作品のテーマとやや被っている作品はこの短編集にも他に収録されてるが、「美しい家」「悪夢」のほうが好き

 

第三篇 シーボーン

よくあるホラー短編としてはよくできてると思う、ただこの作品を通して何か語っているかといわれたら微妙、最初にほのめかされてるように住み分けがテーマなんだとしたら、主人公の動機にも相反するようなものが欲しかったかもしれない、あとオチはちょっとウケた、物理的に殴れるのか。

 

第四編 悪夢

過去に執着せず、現在から未来に進むためには過去の執着を捨て清算しなければならない、というような作品で、「過去への執着が未来を阻む」ということの暗示が締め付ける指輪になっている、オチは割と好き、しょーもない恋愛劇はもっとなんとかしてほしかった。

 

第五編 幻の女

割としょーもない作品、女の恨みは怖いのよ!みたいな作品ですかねこれ、あっそ。

 

第六編 非毛氈の上

これもしょーもない、別にいい話が嫌いなのではなく、こういう作品の構成が嫌だ、わからないかもしれないけど朱川湊人の「いっぺんさん」のようなしょーもなさがある、がばいばあちゃん(激古)のようなベタさがある、別に内容も優れてない。

 

第七編 金ラベル

多分「子供の時には気付かないが、もっとも自由なのは大人でなく子供である」というような作品、読んでるときはわりと「ふーん」という気持ちで読んだが悪い作品ではないので、多分もう一度読んだらまた好きになるかもしれない。

日記

今日は9時までに札幌駅に着かなければいけない要事があるので7時におきるつもりだったんだけど、あまりの眠さにアラームをとめて7時15分まで二度寝、必要なものは前日に揃えていたので(えらい)とりあえずプロテインとコーヒーつくって昨日買ったパンを食べて歯を磨いた後に、バス停に向かう8時ごろまでほやほやしていた。

だいたいこの時間でも田舎なので悠々と座ることができる、朝は宇宙ねこ子のアルバム「日々のあわ」を流しながら歩くのがすきなのでよくこれを聞いている

 

地下鉄にも難なく乗車することができた、地下鉄に乗りながら、最近「面白い話して」と言われることが多いので、話が面白い男になるためにはどうしたらいいかを考えていたのだけど、過去の経験に根ざした話、要は武勇伝には数の限界があるんだから、インパクとは強くても比較的はやくにネタ切れになる。面白い話を継続してできるようになるためには、結局のところ話の切り口が重要なんじゃないか、日常の些細な出来事でも面白い見方を提供できるほうが、ネタに困らないし融通が利くに決まっている、そういえば芦田宏尚も「知識って切り口のことなんだよ」って言っていた気がする。そうこう考えているうちに、朝に馬鹿みたいにとったカフェインの利尿作用が発生し、漏れそうになった。

 

札幌駅くらいまでなら我慢できるだろうと思っていたら幌平橋あたりで地下鉄の振動がかなりキツくなってきて、もはやこれは我慢できないんじゃないのというレベルにまでなったので、最悪の事態になったらかばん中におしっこして誤魔化そうなんて無意味なことまで考えてしまっていた。実際漏らすとしたらうんことしょんべんどっちがいいと思いますか?おしっこは絶対にバレますが、うんこは誤魔化せるかもしれません、臭いは気になりますが、平然としてればバレないと思います。

 

それでも漏らすことなく札幌駅についてようやくおしっこをすることができた、トイレで多少時間を食ってしまったけど時間はまだあるし、たかが2、3分程度の遅刻で首だとか大層なことにはならないので相手に待ってもらうことにする。目的地まで200M程度なので侮って悠々と向かっていたのだけど、指定された場所がわからず駅の内部で迷ってしまい堂々と30分遅刻、しかもこの時点で忘れ物が3つあることに気付く。

 

今日の要事はクソバイトの研修会なので、研修を聞くだけで自給が発生する楽な仕事だ、スクリーンを見ながら就業規則やらなんやらを覚えてもらうよくあるやつで、「グローバル世界に参加しコンプライアンスを遵守しつつマネタイズすることで戦略的な展開を期待する」などと爆笑もののナレーションが流れる

 

この手の研修はよくあるのだけど、今回の研修で異常だったのがひとつあって、それはナレーションビデオの中に出てくるマスコットキャラクターの存在なんだけど、そのビドはナレーションと語尾が「キュ」のマスコットキャラクターの二人がしゃべる形式になっている、何がおかしいってマスコットキャラがしゃべる時の音量がクソでかい上に音質がぶっ壊れていることなんだよな

 

スピーカーというよりは10年前の電子拡声器に大声で録音したような音質で、割れてるしハウリングしてるし、そのマスコットキャラがしゃべる時だけ玉音放送とか周恩来の爆音演説のレベルになるので落ち着いたナレーションと比較して浮きすぎている、「な"る"ほ"どコ"ン"プ"ラ"イア"ン"ス"は"大"事"な"ん"だっ"き"ゅ"ガガガガガガガガ!!!!!クポー(ハウリング)」みたいな感じなので笑ってしまった

 

とりあえず帰って飯くって本読んでる、んう。

 

 

福光利一「機械」

主人公の「私」は感情や肉体的な痛みを一切表現しない、「私」は淡々と工場での人物が、労働やそこで起こった事件を通して連動して変化していく様を心理的に描写される。これは、作者が感情的なものを排除して、意図的に表現しないことで、人間の自意識を機械的に見つめる始点を生み出したものだと思う。文章を途切れなく進めさせる特徴的な文体も、意図的に人間らしさや確固たる人格というものを排除するための実験のひとつだろう。

 

ひょんなことから工場へ勤める「私」、病的な主人、暴力をふるわれる「私」、殺人 殺人の犯人を回想する思考が酩酊してゆく。この小説によって示される一つの考えは、人間社会は人間同士や環境によって絶えず移り変わるものであり、その価値観や力関係も絶えず変化していくというものであると思う。

 

突然入ってきた人間によって人間関係の比重は崩れ、力関係は変化する、自分の意識や思想でさえ、薬品に毒素や、時間によって変化する、といった意味があるはずだ。福光利一の短編「機械」特徴のひとつに、主人公が過去から自分自身を記述するという点があるが、その点も、現在から過去を記述し、その回想の中で、さらに「私」の思考に相互に影響を与えてゆき、殺人の犯人はわたしではなかったのかと不安定なものにさせる、その一連の描写にも「人間はあらゆる環境や条件において、絶えず不安定に変化sるもである」という自然主義の否定が示されている。

 

確固たる人格が、悪徳や失敗を道徳的な努力や精神安定によって克服しうるといった自然主義的なものへのひとつのアンチテーゼであるといえるだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

伊坂幸太郎のグラスホッパー/死神の精度の感想

グラスホッパー

 

 伊坂の「グラスホッパー」は押し屋と呼ばれる殺し屋をめぐって各々の登場人物が交錯していく物語なんだけど、この作品は好きではない、実際にエンターテイメントとしてよく書けているな、という部分は多くあるし、様々な伏線やネタを仕込んで深みを持たせてはいるものの、その描写や演出の意味がはっきり理解できないからだ

 

表題の「グラスホッパー」の意味は作品中にも何度か示されるように、都会にひしめき合うように暮らす人間をバッタの群集のようにシニカルに捕らえるような意味が含まれているようには思う、でも言ってしまえばそれだけである、「人間が都会にひしめきあってバッタみたいね」という嫌味以外には何かあるようには思えない、作中で人が何人も無残に死ぬのも、人間という尊い命から一歩引いてモノのように扱うことで、「人間なんてそこまで尊いものでもないんだよ」ということを暗示しているというのはそうだし、それは解説にも書いていることだが、言ってしまえばそれ以上でも以下でもない、ということだ。

 

それに幻覚の描写も気になって、あれはエンターテイメントとしては面白いが、実際にあの幻覚が何を意味しているのかはわからない、たしかに作品全体も一個の幻覚であるかもしれず、その可能性がこの作品にミステリアスでディープな雰囲気を出してはいるものの、それが一体何を主張しているのかは理解できなかった

 

 細かいが鈴木の年齢を27歳としているが、もしこれが本当なら作中の話と照らし合わせると鈴木は15歳くらいで大学生であることになる、まあこういうのは割りとどうでもいいと思ってしまうタイプなんだけど、こういうミスを見ると、この作品にある描写の数々にはそこまで深い意味はないのでは?という風に思ってしまう。

 

死神の精度

 

つぎに同作者の「死神の精度」だがこれは結構面白かった、死神が視点になって物語が進行していく作品は特に珍しくは無いはずだが、現代社会を死神の視点から見せることで、一歩引いたような、キッチュさを持って人間社会を描写することに成功している、つまり、死神という異なった価値観を持った存在が人間社会に現れて活動することにより、その異なった価値観で社会を解説し、新しい視点を提供するのが面白い、

 

これはガリバー旅行記のフウイヌム国旅行記や、トルストイホルストメール、夏目漱石我輩は猫である、に通じる技法である、フウイヌム旅行記では、人間が家畜として馬を飼う、という構図が逆転して馬が人間に似た生物である「ヤフー」を飼育している世界にたどりつくことになる、そこでは馬がヤフーに対して、常に争いごとをし、アルコール中毒であり、輝く石に目がないおろかな生物として描写されることになる。

 トルストイホルストメールでも馬の視点から書かれており、人間たちが勝手に決まりごとを作り、本来だれのものではない土地や財産などに所有権を主張していることの馬鹿馬鹿しさを書いている。

 夏目漱石の「我輩は猫である」も猫の視点から人間の滑稽さを描写するという技法が頻繁に使用されていた。

 このような技法や演出が死神の精度にはあり、作品に違った面白さを与えてる、死神が死を見送ることにするか死をそのまま選択するかといった設定も面白い、話のテンポや描写の切り替えもよく、簡単な言葉を用いてるためすぐに読み進めることができるため、物語として非常に読みやすくエンタメ性もある

 

ただ全体的に死神ではなくても成立するような話が多く、さらに一話ごとのテーマや哲学が希薄な点もあり、そこは不満点ではあった。

 

最後に

 

 まず僕は伊坂のような小説を読むことがまったくない、こういった推理小説を頻繁に読んでいたのが中学生くらいが最後だった気がするためやけに新鮮だった。単純に推理小説は自分の肌に合わないというか、エンターテイメントを演出するためだけに終始していて、作品全体に主張が薄い、哲学を感じない、表現方法も文学とえるほど洗練されていないと思ってしまうからというのが理由のひとつだったが、読んでみるとまあ上記したような感想がやっぱりチラホラ浮かんできたんだけど、普段読まないジャンルだから新鮮に感じて楽しめた、このジャンルも手を出していけば僕が満足するような名作にいつかたどり着けるだろうし推理小説ほかにも読んでみようかな…あと推理小説に詳しいと文系サブカルっぽさが増していいしな…

 

 読んでからだいぶ経ってるのでちょっと読み返してから書こうと思っていたが、読み返してるうちに時間が過ぎてしまった、感想書くといって一週間経っている気がする…

 

ミッションちゃんの大冒険 感想 (二部)

独房にいる主人公は理不尽な状況に対し、また死を選択します、しかし独房の中、外から聞こえてくる秋の虫の音色に感傷的になり泣き崩れます、なき続ける主人公に対し、看守は「生きる気になったか?」と聞き、主人公は「今なら死ねるかも」と返答します

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この一連の描写にある、虫の音色が感傷的な心を呼び覚まし苦痛や孤独を増幅させるというシーンは、ただ単に感傷的な描写として書かれてるのではなく「厭世的な気分の中にある一抹の美しい記憶」を意味してるのかもしれません。つまり単純に寂しさが増幅されるのではなく、「世界の美しさに触れる機会があった、そして過去にそれを楽しめていた時期もあった」そういう体験を暗示することで、世界の美しさや楽しい記憶から取り残され、今では厭世的になり人生を呪うことしかできなくなった自分を感傷的に描写している、取り残された孤独感を描いている、というのがじっさいに示したかったことかもしれません。

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食べ物を見せて否定的な価値観を明示し、労働に駆り出すといった一連の描写非常に直接的でわかりやすいです、これは単純に、社会が、社会自身のためなら人間から幸福を取り上げて自分のいいように使う、もしくは自分は苦労ばかりするが社会に参加することは何も自分には与えてくれないといった気持ちを描写しています。

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示された労働が草むしりで特になんの意味があるのかわからない行為であることも、社会に参加することの閉塞感や無意味感を描写しています、このシーンも、今後の展開からして「労働は無味乾燥で、人間が拠り所にしているこの社会や社会規範も、結局のところは作り物で空虚なものにすぎない」ということを示すための布石の一つとなっています。

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労働のさなか、こちらを脅かすような怪物が現れて、主人公を恐怖させる、そのことを看守の一人に報告するが、なんの気を使ってはくれないという描写も、これもやはり社会は常に自分に無関心だ、もしくは自分の苦痛や恐怖など誰も汲み取ってはくれない、必要とされるわけではない、といったことのメタファーでしょう。

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次に主人公が「私は死ぬのが怖くて生きている」「楽しみなんてどこにもありはしない」「苦しまぬために戦う必要がある」「人生は自由で楽しいはずなのに」と苦悩する姿が描写されます。これはさっきから続く一連のシーンをまとめあげる描写でもあります、つまり、本来なら楽しむべきはずの人生だが、社会参加や労働、自分自身のポリシーのせいで、苦痛を回避するためだけの人生になってしまっている、しかも、苦痛を回避するためにとる行為そのものに苦痛が伴っており、どう戦っても苦痛がついて来る、そして自分自身を不幸に駆り出す社会規範のなんて無意味で空虚なことか、そういった無力感と逃げ場の無さがここで明示されています。

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 主人公は新たな労働のために施設の外に出ることができますが、その屋外も、陰鬱な屋外と対比して晴れ晴れとしたものとは描かれていません、犬に餌をやる労働も、相変わらず陰鬱としていて無味乾燥なものです、これもやはり、苦痛の先にはまた苦痛があることを暗示しているはずです。

 

この漫画で示される施設や監獄は非常に抽象的なもので、単純に社会規範にとどまらず、自分の性格や周りを取り巻く環境、ポリシーなどにも置き換えることが可能でしょう。

 

そして主人公が労働する最中、好きなことを作って人生を楽しもうと決意します、さらに看守から報酬を提示されます、主人公は電話を選択し、そしてその電話から悪人と名乗る人間から電話がかかってくるところでこの漫画の2部は終了します。

 

 

 

ミッションちゃんの大冒険 感想(一部)

この漫画はまず主人公が人生に対する漠然とした閉塞感、苦痛を訴えることから始まります、そしてそこからの逃避として自殺を選択する、トラックに跳ね飛ばされた主人公は死による安寧を期待していたが、死んだ先は無ではなく苦痛の延長でしかなかった、という導入です。

 

これは単純に、死んだ先が無ではなく有である理不尽ホラーという一面的な作品ではありません、この導入部分は、冒頭で主人公が感じた「人生に対する漠然とした閉塞感、苦痛」をさらに掘り下げて具体的にしてゆく、生きることの苦痛の連続と逃げ場の無さを強調してゆく流れになっており、自殺した先が異世界であることは内面への旅の口実でしかありません。

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死んだ先の世界で主人公は独房に監禁され、そこで死を願います、しかし時間が経つにつれここは病院でもないことに気付き、楽になるために死を選んだのに、逃避として機能していなかったことに気付き絶望します。独房に看守のような人物がやってきて主人公を虐待し、理不尽な状況あった主人公は看守にここはどこであるか問いただします、看守は「人生、それはわからん…人間はどうして生きているのか不可解なり、ただ働かなくてはならないのだ」という言葉を言い残します

 

この一連のシーンが作品の全体を貫くテーマの一つで、単純に「目の前の苦痛から逃げても、逃げた先には別の種類の苦痛がある」ということのメタファーとして機能しています、看守や独房はおそらく社会や社会規範を意味しており、そこに閉じ込められる主人公は社会や社会規範を生きる拠り所にできず、閉塞感、厭世観を感じる一個人として描写されています

 

この繰り返される労働や人間のエゴで作られた社会のルールのなんの意味も感じない、所詮は虚構で作り物にすぎない、何故人はなんの疑いも無くそれを拠り所にして生きているのか、ただ特に意味もないこの世界だが、社会は常に無味乾燥に働くことを要求し、そうしなければ生きていけない、そうしたテーマがまず提示されます。

 

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主人公は生きるのが嫌ならどうすればいい?と考え込みます、死によって救われると思っていた悩みが、実際にはなんの解決にもならなかったからです、これもやはり単純に「死んだ先が無ではなかった」という表面的な物ではなく、「逃避の先には常に別の苦悩がある」ということを示しています。

 

恐らくこの作品は、あらゆる苦悩を描く漫画に示される「それなら死ねばいい」という身もふたもなさを避けて、徹底的に生きることによる苦しさや逃げ場の無さを提示しかったのだと思います、現実的に、逃避の最終手段として死は機能する、しかしフィクションとしてその可能性を排除することで、生きることの苦しさをクローズアップして描くことができるからです。

 

最後に絶望する主人公に対し、看守がこう明言します

「残念だがわしはお前をこき使うだろう、明日も明後日も明明後日も、その次も、その次の日も、その次も」

 

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これもやはり、当人がどれだけ人生に絶望して、休息を欲してようが悩む時間を欲してようが、当人の意思とは無関係に周り続け、そこに暮らす人間に対し強制力を持って働きかける、法や社会規範、社会や労働のメタファーとして示されていることは今後の展開からしても明らかです。

 

ここでは絶望する主人公に対し、社会は残酷で常に無機質であり、そこに意味はないといったことが明示されています

 

 

UFC感想

ufc215と216を見たので気になったのをいくつか。

 

メレンデスvsスティーブンス:ローキックで滅多打ちにされて完封負けするメレンデスを見るのは悲しかった、1Rのローで多分左足は破壊されてたし、左足を保護するたびにサウスポーに切り替えてからも滅多打ちにされ、2R終了時には確実に戦意喪失していた、2R目からはひたすらガードを上げてディフェンスに徹していて冴えてるところがなかった、それに1R目でドクターチェックが口頭だけだったのが悲しかったな…

 

ドスアンジョスvsニール・マグニー:ドスアンジョスの足払いからのサイドコントロールと、マウントからのアームトライアングルが美しすぎた、僕もあんな感じで人を殺したい。

 

ヌネスvsシェフチェンコ:判定が微妙だな…3Rをどう評価するかだけどシェフチェンコの勝ちが妥当な気がしたのでマイクパフォーマンスでの怒りには共感できる。

 

ヴェウドゥムvsハリス:欠場したルイスの代役のハリスが完全な手合い違いだけど、なんとなくルイスもこんな感じで瞬殺されそうではあるから、欠場は妥当かもしれない。それにしてもシングルTD→ハーフ→マウント→バック→腕ひしぎの流れはうまい、多分バックチョークのディフェンスで右腕をあえて取らせて首の左側に回させ腕ひしぎに持っていったのだと思うけどそこはさすがグラップラーと言う感じ。前回のアリスターの判定がクソだっただけに嬉しい。

 

DJvsレイボーグ:相変わらず格闘家以外はつまらないだろうなという内容だったけど、5R終了時のスープレックスアームバーで一気に目が覚めた、だれかが「それ2Rでやれば面白い試合だったな」と書いてたけど確かにわかる、でも一般ウケは置いといて、DJは格闘家としては完成されていると思う。

 

ケビンリーvsファーガソンファーガソンはクソ強い上に身体能力がズバ抜けているがどうしても毎回あぶなっかしい、パンチをあっさり食らってフラフラになったりダウンしたりして「あれ、こいつヤバくね」となるけど最後はなんだかんだ言って勝つ、それがファーガソンだし、今回もそうだった。あとお前1R終了時に殴ったのはワザとだろ、まあ終わって見ればファーガソン圧勝だった、どうもケビンは序盤に体力を使いすぎたかバテてるように見えたし、3R目からはTDに成功してもガードの中に入ってボコられてるだけだったし、アームバーからのエスケープは見事だけど三角締めにつっこんで自爆したのはちょっとマヌケ、ツイッターでベン・アスクレンが「マジで2017年にもなってガードポジションからの三角絞めでタップアウトしたヤツなんているのか? アマチュア野郎だよ」って書いてたけど、正直同じこと思った。