続・加藤の乱

メンヘラ格闘家

最近読んだ本

ブッツァーティ「神を見た犬」

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岩波文庫からもブッツァーティの短編集が出ており(東宣出版からも出てるけど持ってない)、それと比較すると本作品に収められた短編は、不条理やペシミズムを書くブッツァーティの作品にしては比較的に当たり障り無く安易な作品が多い。また、有名な作品である「神を見た犬」「7階」「護送大隊襲撃」については岩波文庫から出版れた短編集と同様にこの短編集にも収められているが、2つを比較すると同じ作品でも翻訳をシンプルにしようとした工夫が見られる。ブッツァーティは短編を通してペシミズムや不条理を表現するのが醍醐味の一つであって、シンプルな翻訳によってその世界観が薄まっている感じは否めない。

 

 

 

最近読んだ本『アンソロジー カレーライス!!大盛り』杉山淳子・編

『アンソロジー カレーライス!!大盛り』杉山淳子・編

 

これはカレーライスに関するエッセイを44編収録した作品で、井上靖、内田百閒、中島らもよしもとばなな等のかなり著名な作家が並んでいる、僕は食べ物に関するエッセイのアンソロジーなんてまず読まないので(普通に本を読んでたら食べ物を主題にしたエッセイを読む機会はあるだろうけど)気になって購入たのだが、これがかなり面白かった。

 

なによりカレーライスを主題にしたのがいい、それは、カレーライスが非常に庶民的で家庭で作られることが多く、かつ各家庭が調理法についてそれぞれ意見を持っているというところにある。つまり、「うちでは隠し味に生クリームを入れるんだよ」ということを「我が家の秘伝」として温めておいて、うれしそうに話すところなどがカレーライスの持つ魅力であり、カレーライスについてのエッセイは単なるグルメという範囲にとどまらず、背後にそれぞれの生活が浮き彫りになり、グルメエッセイにさらなる広がりを持たせるのがいい。

 

これが寿司や牛同だったらすしろーだのすき家だの馬鹿みたいな話か、それこそ「どこそこにこんないい店があって」というグルメらしい話になるに決まっている。別にそれが悪いわけではない、そうではなく、カレーライスは庶民的で家庭で作られることが多いために、たんなるグルメにとどまらない特別な広がりを見せるということだ。

 

収録されてる作家がかなり古い作家が多いので、時代背景も当然古くなるのだが、エッセイとして劣るということはない、ただひとつ気になったのは、昭和の作家が多いため、家庭の話になるととんでもないDVエピソードが「懐かしい思い出」としてカレーと関連づけて書かれる話が2、3作あって辟易した、まあ全体的にそんな話はまずないので気にはならないが…。

 

逆に時代背景が古いことで、こんなことを知ることができる。現代ではまずないが、昔は「カレーライス」のことを「ライスカレー」と呼ぶ人が多かったらしく、本作品でも「カレーライスかライスカレーか」という現代人では馴染みの無い内容のエッセイも収録されている。それに当時はカレーの元を「カレールウ」として販売するのは一般的ではなく、「カレー粉」に「メリケン粉」を混ぜてとろみを出すというのが一般的だったようで、家庭によっては「メリケン粉」が変えなくて「うどん粉」だったりとか、欧米嫌いの母が「メリケン粉」を入れてくれなくてサラサラだったとか、そういう現代には無い話も聞くことができる。ちなみに「メリケン粉」というのは「小麦粉」であるが、当時の呼び方は「メリケン粉」で統一されていたらしく、「小麦粉」というワードはあまり出てこない。とにかく、現代のように洗練された「カレールウ」というのは存在せず、素っ気無いカレー粉をおいしくするために、各家庭でさまざまな努力がされたことはたしかだ、カレーライスは現代よりも各家庭で差があり、個性的だったのかもしれない。

 

資本主義は恒久的な闘争状態にあり、各企業を絶え間ない競争へと駆り立て、食品の質を向上させた、レトルトのカレーでさえその例外ではない、どんなつまらない動植物だって、絶滅するのには何千年の時間がかかる、ところが資本主義は、数年で地球から製品を抹消してしまう、資本主義が抹消したのは製品だけにとどまらず、それに付随する人の生活の多様性までも抹消している、ヘーゲルに言わせれば、近代が達成したのは、「主体性原理が、個人的特殊性の自己満足的極端において充足に達する」ことを許したことである。この原理は、自立した個々人がその私的欲求を満たすために自由市場経済の制度を通じて互いに関係しあえるような市民社会を可能にしたのである。企業は競争相手を蹴落とし、市民の個人的特殊性を満たす企業が独占する、しかし個人はすなわち労働者であり、市場経済の独占は雇用の喪失と労働者の阻害を招く、資本主義は生活を豊かにした、資本主義の判断基準は「それは有用か」という非常にシンプルなものであるからだ、だが、われわれの幸福度は本当に上昇したのだろうか?第五インターナショナル発足はそう遠くはないはずだ、民主主義は結局のところ衆愚政治であり多数決なのだから、暴力的な手段を持って政府転覆を図る以外に方法はない、今本当に望まれているのは自民党を市民が監視することでも政権交代でもない、革命である。カールマルクスの予言は、一度は嘲笑を持って迎えられたが、今日では真実味を持って迫ってきている、共産主義という亡霊が、革命を背後にチラつかせながら、いまかいまかと資本主義の転覆を図り待ち構えていることは、世界情勢を見れば明らかである。

 

 

 

ちなみに我が家のカレーライスの隠し味に生クリームととんかつソースとケチャップとしょうゆを入れる、具はたまねぎ、じゃがいも、にんじん、鶏肉、なす、かぼちゃが入っていて、なすとカボチャは必ず揚げておいて、カレーがしっかり煮詰まった後に入れる、我が家のカレーはかなりうまいほうだと思う、母親は来客には絶対カレーを食べさせたがるので、僕の家に来たら食べれます。

 

 

最近聞いた音楽とか

星野源「アイデア

 

デイリー史上最高売り上げを記録とかMVが500万再生だとか、星野源初の一斉配信だとか、記録や話題の面でも力を発揮したのがこの曲、iTuneの評価を見ると評価5が大半と少量の評価1で構成されており、中間がない、このことからもファンの購入が記録を大幅に伸ばしたということは明らかなのだが、それほどファンの心を掴む曲であったということはよくわかる。

 

星野源の作曲におけるテーマの一つに「音楽で世界を変えることはできなくても、つらい時や楽しい時に聞いて人の心を動かす作品を作りたい」というものがあると思う、これは僕が本人のラジオや書籍を読んで感じたことの感想である。

 

そして今回配信された「アイデア」は、その本人の核心的なテーマそのものというべき曲であると思っている、歌詞の内容は一言に纏めてしまえば「つらい時や楽しい時に、僕の曲があなたのそばに寄り添おう」という意味だと思う、その曲のことを「アイデア」と暗喩的な表現をしているのではないか。

 

「つらい時や楽しい時に、僕の曲があなたのそばによりそう」という言葉は、ある程度親密である人間にとっては深く心に入るだろう、逆に言えば、関係の薄い人間からしたら白々しさや薄ら寒さを感じる言葉であり、距離だと思う。そしてこの曲は、本人が公言してるように、暗い人が置いてけぼりにならないような構成にもなっている、どんな気分のファンでも聞けるという配慮がされている。

 

だからこそこの曲はファンの心を掴む曲であり、今まで星野源を聞いてきた人であればこそ「これこそ星野源だ」と言えるような曲なのではないか。

 

the peggies遠距離恋愛」(『super boy ! super girl !!』に収録)

 

そういえば僕は、遠距離恋愛をテーマにした曲はあまり聞いたことがない気がする、記憶に残ってないのか知らないが、僕は少なくとも覚えはない。この曲は「何か新しいアーティストを聴きたい」と物色していたところに偶然このアーティストを見つけ、タイトルが「遠距離恋愛」だったから視聴したことで出会った曲であり、アルバムだ。

 

これは万人が共感できる曲ではないが、僕自身遠距離恋愛なので、この曲の感覚には100%共感できる、お互い真剣に相手のことを思ってるなら歌詞の全てが、自分の経験とリンクするのではないか、と思わせるぐらい、遠距離恋愛の楽しさと苦しさを余すところなく汲み取っている。

 

恋愛をテーマにした曲はいくらでもある、それはしばし、アーティスティックな感傷に浸るための、作曲者のナルシズムの表れであることも多い。だがこの曲は、本人の経験から離れ、ナルシズムが生み出した自己の像も現れることもない、まさに遠距離恋愛のせつなさや幸福をそのまま提供するような曲だ、とにかくよく書けている曲だと思う、〈等身大〉(=誇張も虚飾もない、ありのままの姿)というのは使い古された言葉だが、はまさにこのことを言うのだろう。

 

なの小夕子「経済の夜明け」~「クリームシチュー」(『結婚』に収録)

 

新譜『結婚』の楽曲は全てよかった。

なの小夕子の楽曲はいい意味であまり作りこまれた感じがない、メジャーの中のメジャーばかり聴いてる人であれば、チープだと感じる音の作りや音圧であることは確かだと思うが、下手になりすぎない絶妙なラインを突くところや、平成後期の中に昭和や平成初期の音楽の残滓を感じるような、ある種の懐かしさを含んだ楽曲がツボに入る人は多いと思う。

 

個人的には、なの小夕子の楽曲は「なの小夕子本人が作っている」という〈個人〉を強く感じさせるものであり、大御所と比べればチープな編集であっても「本人が作りたいものを作り、伝えたい感情を伝えている」ということを強く感じることができるし、このような楽曲は、「この空の下にいるひとつの人生が、大勢ではないが細々と感情を音楽に載せて伝え、人の心を動かしている」という人間愛を感じることができるから好きなアーティストである。

 

昔友人に聞かせたら「大森靖子みたい」とカスみたいなことを言われたが(大森靖子はまあまあ好きだが)、大森靖子より相当落ち着いているし、大森靖子は非常に女性的な感情の吐露であることが多いが、なの小夕子は男女どちらかに限定されるような表現は少なく、繊細な楽曲が多いはずなんだけどな…(わかる人にしかイマイチ理解できない歌詞という点では一致してる部分はあるが)

 

ニガミ17才「化けるレコード」

 

これはyoutubeのMVでしか聴いたことがなく、アルバムはまだ買ってない、僕が高校生だったころに嘘つきバービーが流行っていて、僕も大好きだった、(当然音楽好きの中での話だけど)その嘘つきバービー岩下がこういう形で戻ってくるというのはすごく感慨深かったのを「ニガミ17才」の結成当時はそう思っていたのをよく覚えている。

 

ニガミ17才の「化けるレコード」はインタビューを見る限り割と「身も蓋もない」というべき曲なのだが、それは嘘つきバービーのころから一貫してると思う、僕は昔、そういう表現する裏に意図や主張がないというのが嫌いだったんだけど、今はそういう曲でも普通に聞いている、どんな曲でも背後に〈意味〉や〈背景〉を読み取れるという心境の変化があったからかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

加門七海「美しい家」

今回はホラー短編集です、表題作の「美しい家」がよかったので結構期待しながら読んでたけど後半になってからつまらなくなってきた感があります(というか美しい家が一番面白い)

 

第一編 美しい家

これは表題作なだけあって面白かった、簡単に言えば過去の美しさと未来の不安と不確実さをテーマにした作品で、過去を記憶する家をそのオマージュにしているのがよい、最後は幻に取り込まれた青年と、現実を選んだ主人公の対比になるが、現実に戻ってきたからといってこれからの幸福を予感させず、相変わらず未来の不確実性を暗示させるのもいい。

 

第二編 迷い子

描写が馬鹿すぎて失敗してるとしか思えない作品、というか単純にこういう大げさなホラー描写を読んでしまうと笑ってしまうので嫌だ、この作品のテーマとやや被っている作品はこの短編集にも他に収録されてるが、「美しい家」「悪夢」のほうが好き

 

第三篇 シーボーン

よくあるホラー短編としてはよくできてると思う、ただこの作品を通して何か語っているかといわれたら微妙、最初にほのめかされてるように住み分けがテーマなんだとしたら、主人公の動機にも相反するようなものが欲しかったかもしれない、あとオチはちょっとウケた、物理的に殴れるのか。

 

第四編 悪夢

過去に執着せず、現在から未来に進むためには過去の執着を捨て清算しなければならない、というような作品で、「過去への執着が未来を阻む」ということの暗示が締め付ける指輪になっている、オチは割と好き、しょーもない恋愛劇はもっとなんとかしてほしかった。

 

第五編 幻の女

割としょーもない作品、女の恨みは怖いのよ!みたいな作品ですかねこれ、あっそ。

 

第六編 非毛氈の上

これもしょーもない、別にいい話が嫌いなのではなく、こういう作品の構成が嫌だ、わからないかもしれないけど朱川湊人の「いっぺんさん」のようなしょーもなさがある、がばいばあちゃん(激古)のようなベタさがある、別に内容も優れてない。

 

第七編 金ラベル

多分「子供の時には気付かないが、もっとも自由なのは大人でなく子供である」というような作品、読んでるときはわりと「ふーん」という気持ちで読んだが悪い作品ではないので、多分もう一度読んだらまた好きになるかもしれない。

福光利一「機械」

主人公の「私」は感情や肉体的な痛みを一切表現しない、「私」は淡々と工場での人物が、労働やそこで起こった事件を通して連動して変化していく様を心理的に描写される。これは、作者が感情的なものを排除して、意図的に表現しないことで、人間の自意識を機械的に見つめる始点を生み出したものだと思う。文章を途切れなく進めさせる特徴的な文体も、意図的に人間らしさや確固たる人格というものを排除するための実験のひとつだろう。

 

ひょんなことから工場へ勤める「私」、病的な主人、暴力をふるわれる「私」、殺人 殺人の犯人を回想する思考が酩酊してゆく。この小説によって示される一つの考えは、人間社会は人間同士や環境によって絶えず移り変わるものであり、その価値観や力関係も絶えず変化していくというものであると思う。

 

突然入ってきた人間によって人間関係の比重は崩れ、力関係は変化する、自分の意識や思想でさえ、薬品に毒素や、時間によって変化する、といった意味があるはずだ。福光利一の短編「機械」特徴のひとつに、主人公が過去から自分自身を記述するという点があるが、その点も、現在から過去を記述し、その回想の中で、さらに「私」の思考に相互に影響を与えてゆき、殺人の犯人はわたしではなかったのかと不安定なものにさせる、その一連の描写にも「人間はあらゆる環境や条件において、絶えず不安定に変化sるもである」という自然主義の否定が示されている。

 

確固たる人格が、悪徳や失敗を道徳的な努力や精神安定によって克服しうるといった自然主義的なものへのひとつのアンチテーゼであるといえるだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

伊坂幸太郎のグラスホッパー/死神の精度の感想

グラスホッパー

 

 伊坂の「グラスホッパー」は押し屋と呼ばれる殺し屋をめぐって各々の登場人物が交錯していく物語なんだけど、この作品は好きではない、実際にエンターテイメントとしてよく書けているな、という部分は多くあるし、様々な伏線やネタを仕込んで深みを持たせてはいるものの、その描写や演出の意味がはっきり理解できないからだ

 

表題の「グラスホッパー」の意味は作品中にも何度か示されるように、都会にひしめき合うように暮らす人間をバッタの群集のようにシニカルに捕らえるような意味が含まれているようには思う、でも言ってしまえばそれだけである、「人間が都会にひしめきあってバッタみたいね」という嫌味以外には何かあるようには思えない、作中で人が何人も無残に死ぬのも、人間という尊い命から一歩引いてモノのように扱うことで、「人間なんてそこまで尊いものでもないんだよ」ということを暗示しているというのはそうだし、それは解説にも書いていることだが、言ってしまえばそれ以上でも以下でもない、ということだ。

 

それに幻覚の描写も気になって、あれはエンターテイメントとしては面白いが、実際にあの幻覚が何を意味しているのかはわからない、たしかに作品全体も一個の幻覚であるかもしれず、その可能性がこの作品にミステリアスでディープな雰囲気を出してはいるものの、それが一体何を主張しているのかは理解できなかった

 

 細かいが鈴木の年齢を27歳としているが、もしこれが本当なら作中の話と照らし合わせると鈴木は15歳くらいで大学生であることになる、まあこういうのは割りとどうでもいいと思ってしまうタイプなんだけど、こういうミスを見ると、この作品にある描写の数々にはそこまで深い意味はないのでは?という風に思ってしまう。

 

死神の精度

 

つぎに同作者の「死神の精度」だがこれは結構面白かった、死神が視点になって物語が進行していく作品は特に珍しくは無いはずだが、現代社会を死神の視点から見せることで、一歩引いたような、キッチュさを持って人間社会を描写することに成功している、つまり、死神という異なった価値観を持った存在が人間社会に現れて活動することにより、その異なった価値観で社会を解説し、新しい視点を提供するのが面白い、

 

これはガリバー旅行記のフウイヌム国旅行記や、トルストイホルストメール、夏目漱石我輩は猫である、に通じる技法である、フウイヌム旅行記では、人間が家畜として馬を飼う、という構図が逆転して馬が人間に似た生物である「ヤフー」を飼育している世界にたどりつくことになる、そこでは馬がヤフーに対して、常に争いごとをし、アルコール中毒であり、輝く石に目がないおろかな生物として描写されることになる。

 トルストイホルストメールでも馬の視点から書かれており、人間たちが勝手に決まりごとを作り、本来だれのものではない土地や財産などに所有権を主張していることの馬鹿馬鹿しさを書いている。

 夏目漱石の「我輩は猫である」も猫の視点から人間の滑稽さを描写するという技法が頻繁に使用されていた。

 このような技法や演出が死神の精度にはあり、作品に違った面白さを与えてる、死神が死を見送ることにするか死をそのまま選択するかといった設定も面白い、話のテンポや描写の切り替えもよく、簡単な言葉を用いてるためすぐに読み進めることができるため、物語として非常に読みやすくエンタメ性もある

 

ただ全体的に死神ではなくても成立するような話が多く、さらに一話ごとのテーマや哲学が希薄な点もあり、そこは不満点ではあった。

 

最後に

 

 まず僕は伊坂のような小説を読むことがまったくない、こういった推理小説を頻繁に読んでいたのが中学生くらいが最後だった気がするためやけに新鮮だった。単純に推理小説は自分の肌に合わないというか、エンターテイメントを演出するためだけに終始していて、作品全体に主張が薄い、哲学を感じない、表現方法も文学とえるほど洗練されていないと思ってしまうからというのが理由のひとつだったが、読んでみるとまあ上記したような感想がやっぱりチラホラ浮かんできたんだけど、普段読まないジャンルだから新鮮に感じて楽しめた、このジャンルも手を出していけば僕が満足するような名作にいつかたどり着けるだろうし推理小説ほかにも読んでみようかな…あと推理小説に詳しいと文系サブカルっぽさが増していいしな…

 

 読んでからだいぶ経ってるのでちょっと読み返してから書こうと思っていたが、読み返してるうちに時間が過ぎてしまった、感想書くといって一週間経っている気がする…

 

ミッションちゃんの大冒険 感想 (二部)

独房にいる主人公は理不尽な状況に対し、また死を選択します、しかし独房の中、外から聞こえてくる秋の虫の音色に感傷的になり泣き崩れます、なき続ける主人公に対し、看守は「生きる気になったか?」と聞き、主人公は「今なら死ねるかも」と返答します

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この一連の描写にある、虫の音色が感傷的な心を呼び覚まし苦痛や孤独を増幅させるというシーンは、ただ単に感傷的な描写として書かれてるのではなく「厭世的な気分の中にある一抹の美しい記憶」を意味してるのかもしれません。つまり単純に寂しさが増幅されるのではなく、「世界の美しさに触れる機会があった、そして過去にそれを楽しめていた時期もあった」そういう体験を暗示することで、世界の美しさや楽しい記憶から取り残され、今では厭世的になり人生を呪うことしかできなくなった自分を感傷的に描写している、取り残された孤独感を描いている、というのがじっさいに示したかったことかもしれません。

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食べ物を見せて否定的な価値観を明示し、労働に駆り出すといった一連の描写非常に直接的でわかりやすいです、これは単純に、社会が、社会自身のためなら人間から幸福を取り上げて自分のいいように使う、もしくは自分は苦労ばかりするが社会に参加することは何も自分には与えてくれないといった気持ちを描写しています。

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示された労働が草むしりで特になんの意味があるのかわからない行為であることも、社会に参加することの閉塞感や無意味感を描写しています、このシーンも、今後の展開からして「労働は無味乾燥で、人間が拠り所にしているこの社会や社会規範も、結局のところは作り物で空虚なものにすぎない」ということを示すための布石の一つとなっています。

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労働のさなか、こちらを脅かすような怪物が現れて、主人公を恐怖させる、そのことを看守の一人に報告するが、なんの気を使ってはくれないという描写も、これもやはり社会は常に自分に無関心だ、もしくは自分の苦痛や恐怖など誰も汲み取ってはくれない、必要とされるわけではない、といったことのメタファーでしょう。

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次に主人公が「私は死ぬのが怖くて生きている」「楽しみなんてどこにもありはしない」「苦しまぬために戦う必要がある」「人生は自由で楽しいはずなのに」と苦悩する姿が描写されます。これはさっきから続く一連のシーンをまとめあげる描写でもあります、つまり、本来なら楽しむべきはずの人生だが、社会参加や労働、自分自身のポリシーのせいで、苦痛を回避するためだけの人生になってしまっている、しかも、苦痛を回避するためにとる行為そのものに苦痛が伴っており、どう戦っても苦痛がついて来る、そして自分自身を不幸に駆り出す社会規範のなんて無意味で空虚なことか、そういった無力感と逃げ場の無さがここで明示されています。

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 主人公は新たな労働のために施設の外に出ることができますが、その屋外も、陰鬱な屋外と対比して晴れ晴れとしたものとは描かれていません、犬に餌をやる労働も、相変わらず陰鬱としていて無味乾燥なものです、これもやはり、苦痛の先にはまた苦痛があることを暗示しているはずです。

 

この漫画で示される施設や監獄は非常に抽象的なもので、単純に社会規範にとどまらず、自分の性格や周りを取り巻く環境、ポリシーなどにも置き換えることが可能でしょう。

 

そして主人公が労働する最中、好きなことを作って人生を楽しもうと決意します、さらに看守から報酬を提示されます、主人公は電話を選択し、そしてその電話から悪人と名乗る人間から電話がかかってくるところでこの漫画の2部は終了します。